20250831 132257

リファーラルマーケットの先にあるもの

life

「久田さんに紹介したい人がいるんですよー」

受話器越しの声は、氷を転がしたグラスみたいに軽やかだった。
金子ひろし――通称ねこ。彼の「紹介したい人」は、たいてい知らない誰かで、そしてたいてい俺の生活リズムを変えていく。
その夜も例外じゃない。

「で、どこの誰?」
「タイです」
「国名で来たな」
「バンコク。明日、行きましょう」

一拍置いて、脳が状況の追い付きを諦めた。机の上のメモ帳に“タイ”と書き、丸で囲む。丸はいつの間にか渦になり、渦は黒塗りになり、最終的に“明日”の文字を飲み込んだ。

「パスポート有効期限、大丈夫でしたっけ?」
「いや、知らん。ていうか“明日”って何」
「だって、紹介したい人がいるんですよー」

会話は、彼の無敵の口癖に着地してしまう。いつもそうだ。
そうして翌朝、俺は半袖シャツとスニーカー、リュックひとつの身軽すぎる正装で空港に立っていた。

チェックインカウンターでねこがウキウキしながら言う。
「現地、蒸し暑いですから、荷物は軽いほうがいいんです」
「軽すぎるんだよ」
「あとで買えば大丈夫です。タイ、何でもあります」
「“何でもある国”に“何も持たずに”行くのやめよう」

それでも俺は搭乗口へと歩いた。理由は単純だ。ねこの誘いは、勝手に物語を始める。理屈じゃなく、物語の重力で俺は飛行機に吸い込まれていく。

機内。エアコンの冷気に肩をすくめながら、機内誌の地図を眺める。
「週末挟むし、サッカー見られるかもな」
内心の独り言は、すでに南国の歓声を聴いていた。

隣席のねこは、座席の画面に映る飛行ルートを見つめてニヤニヤしている。
「久田さん、この線って、なんかロマンですよね」
「空の上の落書きだ」
「落書きでも、引いた人の人生にはちゃんと線が残る」

そういうことだけ、こいつは妙に上手い。

雲海を滑って、バンコクが近づく。俺の胃は、少しだけ未来に浮いた。

ホストファミリーと旅行の誘い

到着ゲートが開く。湿った熱気が、空港の空調を追い出すみたいに入り込んできた。
甘い匂い――ジャスミン、フルーツ、屋台の油。昼と夜の境目がぐにゃりと溶けて、空は金色の膜を張っている。

「Welcome!」
ねこのホストファミリーが両手を広げる。
小柄なお母さんは、目尻に笑い皺をたたえて、俺にも容赦なくハグ。肩越しに、台所の湯気みたいな温度の優しさが伝わってくる。

リビングに通されると、テーブルには切り分けられたマンゴーと氷で汗をかいたグラス。
お父さんが片言の日本語で言う。
「カツドン、スキ。アナタ、トモダチ。ファミリー」
「……いきなり胃袋を掴みに来たな」
ねこが笑う。
「この家、“紹介”しがいあるでしょ」

ソファに沈みかけたちょうどそのとき、お母さんがパン、と手を叩いた。
「Now travel!」
「ナウ?」
「ナウ」

到着した足で、そのまま国内旅行に出るらしい。お父さんが手際よくスーツケースを閉め、ねこは俺の腕を引いた。
「島に行きます。飛行機でピュッと」
「“ピュッと”飛ぶ距離の概念、国単位でおかしいからな」

空港に引き返す車内、フロントガラスの向こうにバイクが川のように流れていく。信号が青でも赤でも、街は止まらない。
ねこは助手席で後ろを振り向いた。
「島の空港から港へ移動、船で渡って、夕日。完璧です」
「宿は?」
「ホストファミリーの親戚がいます。紹介します」
その単語で、俺の背中にうっすら嫌な汗が出た。たぶん、未来の火種だ。

国内線の搭乗口の前で、突然のアナウンス。
「テクニカル……フライトキャンセル」

ねこが眉を八の字に曲げる。
「機材故障ですね。よし、に切り替えましょう」
「“よし”じゃないよ」

それでも手配は進む。ホストファミリーは「大丈夫、大丈夫」と笑い、俺は“大丈夫”の国のリズムに半歩遅れで乗っていく。

 

 

 

シンハービールの罠

港の待合室は、空港よりも世界の端っこ感が強い。古い天井扇は、時間そのものをぐるぐる攪拌している。
プラスチックの椅子、薄いクッション、子どもの笑い声。潮の匂いは、汗と混ざって塩キャラメルみたいに甘ったるい。

「飲み物、買ってくる」
仲間のひとりが立ち上がり、少しして戻ってくると、手にはシンハービール
瓶の表面を流れる滴は、小さな滝のスローモーションだ。

「いいな、それ」
喉が乾いた。南国のビールは、透明な黄金で人を惑わせる。
俺は、荷物を席に置いたまま売店へ歩いた。財布はリュックのサイドポケット、パスポートは内側のファスナー――のはずだった。

レジで「あ」と声が漏れる。
財布、ない。パスポート、ない。
全部、あの椅子の上のリュックの中。

売店の兄ちゃんがにこやかに首を傾げる。
「Change?」
「ノー……ノーウォレット、ノーパスポート、ノービール」

急いで戻る。息が上がる。汗が背中をつたう。
――椅子には、何もなかった。
リュックも、仲間も、ねこも。

鼓動が、港のサイレンみたいに鳴り始める。
掲示板の出発時刻は、容赦なく数字を減らす。
「ゲート……先に行った?」
俺は自分に言い聞かせるようにつぶやき、チケットもないのにゲートへ向かった。

係員の「チケット?」に、俺は口を開いた。
「……パスポートは、ある」
ジャケットの内ポケットから、奇跡のようにそれだけが出てきた。
係員は顔をしかめ、肩をすくめ、手を振った。
――行け、でも早く。そんな仕草だった(たぶん)。

通路は迷路だ。案内板は、親切なふりをした謎解き。
港湾施設とショッピングモールが絡み、階段は途中で反り返り、渡り廊下は他人の人生のように遠回りする。
汗で指が滑って、手すりを掴みなおす。
俺は走った。**“間に合えば、全部チャラになる”**という、世界共通の迷信を信じながら。

やっとの思いで乗り場に出る。
船は、巨大な白い建造物で、街区がそのまま海に浮いたみたいだ。
雑踏の背中を縫って、俺は身を滑り込ませる。チケットの提示を求められる前に

甲板を走る。
「ねこ!」「おーい!」
見覚えのある後頭部、いつもの笑い声――は、ない。
代わりに現れたのは、大学時代の日本人の友人だった。
「……え、なんで」
「いや、こっちの台詞だよ」
互いに素っ頓狂な顔で笑い合い、互いに事情を説明する時間は、なかった。

走って、探して、ようやく悟る。
船にいない。
となれば――受付に戻っている可能性。

甲板からタラップ、タラップから渡り廊下、渡り廊下から通路。
今度は来た道を逆走だ。
呼吸は短く、熱気は長く、頭の中の地図はぐしゃぐしゃに濡れている。

受付前に飛び出した瞬間、腕を掴まれた。
制服。無表情。短い言葉。
「チケット?」
「えっと……それが……」
英語は出てくるが、状況は出ていかない。
スマホは圏外、財布もない。俺の言葉だけが裸で立っている。

係員の視線が鋭くなった。
俺は、心のどこかで“さっきの強行突破、バレたな”と正直に思った。

職質

事情聴取。扇風機がまた、何かをかき混ぜている。
係員は二人。ひとりは厳しく、ひとりは退屈そうに。
俺は、丁寧に、できるだけ分かる英語で、今起きていることを並べる。
「友人が……“ネコ”です。いえ、アニマルじゃない。ニックネーム。カネコ。彼が荷物を持って……多分、先にゲートへ」
言葉を探しているうちに、係員の表情が変わる。“その名前”に聞き覚えがある顔だった。

別の係員が紙束を持って入って来る。コピー、コピー、コピー。
その一番上。
見覚えのある手作りカードが貼られていた。
白いコピー用紙の真ん中に、ボールペンで殴り書き。
“SHIBUYA FRIENDS CLUB”
そして隅には、俺の顔写真。雑に切って、雑に糊。

係員がため息をつく。
「ラストナイト、コンビニ。ディスカウント、プリーズ
聞き覚えのある台詞だ。
心当たりしか、ない。

場面は、ねこの昨夜の記憶へスライドする――。
深夜の店内、蛍光灯の白。
ミネラルウォーターとチャーンビールが並ぶ冷蔵棚の前で、ねこはカードを掲げた。
「This is my Japanese friend! Discount please!」
店員は困惑、ガードマンが来る、通報。
「ファミリー、ファミリー」と連呼する彼の笑顔は、異国では説明のつかない怪しさに転化する。

――職務質問、そして拘束。
そのとき、俺のリュックも一緒に預けられた。
「トモダチのもの」だから。

係員が俺を見る。
「ユア・フレンド、カストディ
(君の友だちは“お預かり中”だ)

体の力が抜ける。
ねこ、お前。
紹介の連鎖は、ここまで届いていたのか。

「荷物は?」
「ポリス」
財布もスマホも、ポリス。
残ったのは、汗でしっとりしたシャツと、ポケットのパスポート。
そして――これから始まる、長い長い言い訳

受付の奥で電話が鳴る。係員が短くやり取りをして、俺に視線を戻した。
「ポリス、カム」
短い宣告は、短い諦めを連れてきた。

俺は最後の抵抗として、正直に笑ってしまった。
なんで笑うんだ、と自分でも思う。
でも、笑う以外の選択肢がない瞬間というのは、世界にたしかに存在する。

「――わかった。行こう。ねこを迎えに

その後のことは、あなたも知っている。
俺は“共犯”として連れて行かれ、蒸し暑い牢で第2、第3、第4の妙案を見届け、翌日の法廷でCatを名乗った男の無双を浴びることになる。
その先には、黒スーツの“親戚”、スタジアムの大暴動、宴会の会員証、国際指名手配、そしてスクリーンに踊るBased on a true storyまで、すべてが待っているのだ。

でも物語はいつだって、最初の一歩にすべてが含まれている。
ねこの「紹介したい人がいるんですよー」。
あの軽さが、重たい現実を連れてくる。
だけど同時に、どうしようもなく笑える結末も。

港の扇風機は相変わらず、熱風をかき混ぜていた。
俺はパスポートを握りしめ、遠くで鳴るサイレンを背に、深く息を吸った。
――行こう。
物語は、もう始まっている。

 

妙案な罠 

蒸し暑い牢屋の中、俺は背中にじっとり汗を感じながら壁にもたれていた。
窓もない、風も通らない。扇風機がカタカタ回っているが、熱風をかき混ぜているだけだ。

そんな中でねこは、まるでカフェにでもいるかのような軽さで言った。
「久田さん、大丈夫です。僕には妙案がありますから!」

俺は反射的に叫んだ。
「やめろ!その言葉は絶対にろくなことにならない!」

だが聞く耳を持たない。
ねこの“妙案”はいつもそうだ。本人にとっては完璧、だが結果は必ずドタバタと地獄を連れてくる。

第2の妙案 ― ジェスチャー外交

看守が巡回に来ると、ねこは勢いよく鉄格子に駆け寄り、全力でジェスチャーを始めた。

🙆‍♂️🙅‍♂️🙋‍♂️💃

両手を振り、踊るように跳ね、最後は両手でハートマークを作る。

「See?フレンドリー!」
ねこは胸を張る。

看守は無表情でじっと見ていたが、次の瞬間、大笑いして缶のコーラを差し出してきた。
「ほら見ろ、僕の妙案は成功ですよ!」
ねこはドヤ顔で缶を掲げる。

だがすぐに上司らしき警官が現れ、
「No drinks!!」
と怒鳴り、コーラは没収。罰として、俺たちはさらに狭い房に移されることになった。

「おい、だから言っただろ!」
俺は叫んだ。
「失敗じゃないです、学習です!」
ねこは涼しい顔で答えた。

第3の妙案 ― 黒パン経済

夕食に出された硬い黒パン。
囚人たちは誰も手をつけないが、ねこはそれを両手で掲げた。

「Gentleman! Business!」

そう言って筋肉モリモリのロシア人囚人にパンを差し出した。
ロシア人は無言で奪い、丸呑みする。
次にタトゥーだらけのスペイン人が笑いながら「次はソーセージだ」と言い出し、イタリア人が「ピザも頼む!」と乗っかる。

俺は頭を抱える。
「完全に出前係になったじゃねえか!」

だがねこは平然と笑っていた。
「いいじゃないですか。人気者ってことですよ!」


第4の妙案 ― ムエタイ対決

牢の奥で静かに立ち上がったのは、髭面の大男。
誰も逆らわない、この房のボスだ。

「……人気者はすぐに消える」
低い声でそう言うと、囚人たちは一斉に黙り込んだ。

俺は胃が痛くなる。
だがねこはニッコリ笑い、両手を腰に当てて言った。
「久田さん、ついに第4の妙案を出す時がきました」

そう言って、いきなり構えを取る。
「ここは……ムエタイです!」

――いやいやいや。

次の瞬間、ボスも構えを取り、地響きのように足を踏み鳴らした。
「ムエタイ……知ってる」

牢全体が「リング」に変わり、即席の異国格闘技大会が始まった。
囚人たちは「FIGHT! FIGHT!」と歓声を上げ、俺は絶叫する。
「おい、やめろ!絶対やばいやつだ!」

結果、ねこは派手に転がされ、ボスの腹の下敷きに。
「グエッ!」と情けない声を上げるのが精一杯だった。

直後、看守が飛び込んできて怒鳴り散らし、俺たちは翌日の裁判送りと決定した。

裁判喜劇

法廷は薄暗く、木の机と大きな国旗が威圧感を放っていた。
俺は必死に弁明しようとするが、ねこは自信満々に証言台へ立つ。

「Your Honor! I am… Cat!」

傍聴席がざわめく。
「My crime is… drinking Singha Beer!」

いや違う、絶対違う。
だが通訳も困惑しながらそのまま翻訳し、法廷中に失笑が漏れる。

とどめはねこの言葉だった。
「And… my job is… introducing friends!!」

法廷がシーンと静まり返り、次の瞬間爆笑の渦に包まれる。
傍聴席の囚人仲間まで「スーモ!スーモ!」と叫び始め、裁判官も笑いをこらえきれず肩を震わせた。

結局、俺たちは「罰金のみで釈放」。
俺は天を仰ぎ、心の底から叫んだ。
「二度とお前と旅行行かねえ!」


マフィアとスタジアム

釈放された俺たちを迎えに来たのは、ホストファミリーの「親戚」だという男たち。
黒スーツにサングラス、ピカピカの靴。どう見てもマフィアだ。

屋敷に連れて行かれ、ワインを注がれ、こう告げられる。
「お前たちはファミリーだ」

数日後、彼らに連れられてサッカースタジアムへ。
青と赤のユニフォームで埋め尽くされた観客席は熱狂そのもの。
俺はやっと普通の観光ができると胸をなでおろした。

……が、ねこがメガホンを取り出し叫んだ。
「I introduce… my friends!!」

よりによって敵ゴール裏で。
スタジアムは大荒れ、椅子が飛び、旗が燃え、マフィアまで参戦。
ニュースにはこう字幕が流れた。

「日本人観光客、暴動主導」


宴会と国際指名手配

その夜、屋敷では豪華な宴会。
肉料理、ワイン、笑い声、テーブルには無造作に銃が置かれている。

ねこは立ち上がり、満面の笑みで叫んだ。
「Gentleman! I have 妙案!!」

取り出したのは、例の手作り会員証。
“WORLD FAMILY CLUB”と殴り書きされたカード。

マフィアたちは爆笑し、乾杯が始まる――が、スクリーンに映し出されたのはスタジアムで暴れる俺とねこの姿。

翌朝の見出しはこうだった。
「日本人2名、国際指名手配」


映画化

だが奇跡的に逮捕される前に、ハリウッドのプロデューサーがニュースを見て言った。
「これはコメディ映画にするしかない!」

数ヶ月後。
映画館の前で俺は膝から崩れ落ちた。
巨大なポスターにはこう書かれていた。

『スーモとねこ ― タイ大暴動編』

主演:ねこ(本人)。
俺の役はなぜかブラッド・ピット。

観客は腹を抱えて笑い、映画は世界的ヒット。
だがエンドロールにはしっかりこう書かれていた。

Based on a true story.

俺は映画館で絶叫した。
「二度とお前と旅行行かねえええ!」

だが隣のねこは、シンハービールを掲げながらにっこり笑った。

「久田さん、次はハリウッドで紹介したい人がいるんですよ!」

――俺の地獄は、まだ続くらしい。

物語の登場人物はフィクションです。