インタビュー記事『オフィスだけではなく、人同士も仲介します! 庭師から不動産業界へ挑戦した男。』くだもん社長 久田友彦
インタビュー記事『オフィスだけではなく、人同士も仲介します! 庭師から不動産業界へ挑戦した男。』くだもん こと、久田友彦
企業が移転する際のオフィス仲介業を営みながら、事業シナジーの有りそうな人を紹介するなど、さらにプラスワンの価値を提供しているくだもんこと、久田友彦さん。誰かにさらなる価値を提供したいと思う背景にはどんな考えがあるのか、お話を伺いました。
見返りを求めない優しさ
私は沖縄県で生まれ育ちました。父は造園業を営んでいたので、休日は父に連れられて仕事先の公園や庭への水やりに一緒に行っていました。私は長男だったので、将来父の仕事を継ぐことを親戚から期待され、なんとなくそうなるのかと思っていました。
小学生の頃から趣味は熱帯魚の飼育で、砂や水草をどうやってレイアウトするか考えるが好きでした。また、英語劇をやる団体に所属していた関係で、中学生の頃アメリカに1ヶ月ほどホームステイに行くことがあったんです。その時が初めての海外だったので、自分が知らない世界があることに衝撃を受けましたね。そこで、高校生の時も1年間アメリカに留学することにしました。
アメリカ留学では、中学校の頃にお世話になった家庭にステイすることになりました。その家庭がある事情でお金に困る大変な時期になってしまいました。「お金がないからトイレを流すな」と言われるほどだったんです。
しかし、所属していたサッカークラブのチームメイトの家庭が「それなら家に来い」と言ってくれました。英語もろくに喋れない私を受け入れて、朝夜のご飯を作ってくれるだけでも大変だったのに、それだけでなくお昼ごはん代までくれるような本当に優しい人たちでした。見返りなんて求めずに良くしてくれたこの家族の人に、いつか恩返しをしたいと思うようになっていきました。
その後、日本に帰国して進路を考えた時、特別やりたいことは見つかりませんでした。そこで、将来父の仕事を継ぐことを考慮して、母の実家が東京だったこともあり、東京農業大学に進学するため上京することにしました。
また、いつか沖縄に帰ってくるとは思いつつ、今は色々な世界に触れておきたいと考えたんです。
将来は庭師のアルバイトを続ける
大学に入ってからは授業とバイト漬けの日々が始まりました。友だちの紹介で庭師のアルバイトを始めることにしました。
最初は草むしりや落ち葉ひろい等の雑用から始まり、正直、面白いとは思いませんでした。しかし、少しずつ木を切るなどできる仕事が増えると、庭師として働く面白さが分かってきたんです。
また、他にも学童保育や子ども向け学習塾など様々な場所で働きました。特に、スーパーでキウイフルーツのプロモーションイベントをするアルバイトは、学べるものが多くありました。仕事内容としては、スーパーの野菜売り場などの一画でキウイフルーツの試食や調理方法を紹介して、「キウイフルーツの美味しい食べ方」を知ってもらうものでした。
もちろん販促の効果もあり、それこそキウイだけで一日100万円を超えるような売上に達する日もありました。そのため、スーパーの担当者の人からすると「販促」をしてほしいという要望が強くなってきます。しかし、イベントの目的はあくまで美味しさを伝えることなので、利益相反はしないものの、関係者の利害を調整してイベントを成功させる力のようなものが身についていきました。
そんな生活をしているうちに、就職活動の時期を迎えました。正直、そこまでやりたい仕事はありませんでした。そこで、興味のあった音楽業界や造園業界を中心に会社を受けてみたものの、結果は全滅でした。
ただ、庭師のバイトは面白いし、それだけでも生活できるほどの稼ぎはあったので、就職しないで良いと思い、就職活動を早めに切り上げてしまいました。
色々な人に会えるオフィス仲介職
しかし、卒業を控えた11月頃、大学の友だちに、「庭師になるのはもっと色々な世界を知ってからでも遅くはないんじゃない?」と言われ、就職することを勧められました。この時、確かに新卒という機会は一度しかないので、そのアドバイスにしたがって就職活動を再開することにしました。
今度は、前回よりも幅広い業界をみることにしました。しかし、4年生の11月なので採用活動を続けている企業はあまり多くありませんでした。そんな時に出会ったのが、不動産の中でもオフィス物件を仲介する仕事でした。
オフィスの移転に携わる仕事なので、お客様として社長などの決裁者と関われることに魅力を感じました。また、やりたいことが分からない私は、色々な業種の人と関われる点にも惹かれ、あわよくばそこで出会った業種に転職をするのも良いだろうと思ったんです。
そこで、大学卒業後はオフィス仲介を行う不動産会社に入社しました。2年目からは会社が急成長したので、仕事もどんどんやらせてもらいました。
朝から晩まで働き、大きな企業の移転を決められた時はやはり嬉しかったですね。また、仲介なので貸し手と借り手の利害関係を調整するためには、メリットを誇張して見せるよりも、双方の認識のずれがなくなるまでしっかりと対話をすることが大切なんだと学べました。
しかし、その後リーマンショックの影響もあり、業績は下がり、人もどんどん辞めるようになってしまったんです。その分、自分に任せてもらう裁量は大きくなり、終いには次長のポジションにまでなってしまいました。仕事にやりがいは感じたものの、流石にこの環境は異常だと思い、5年勤めた会社を辞めることにしました。
自分スタイルでの挑戦
会社を辞めた後、転職等はせずにふらふらしていました。
クライアント企業の社長から「働かないか?」と誘ってもらうこともありましたが、今まで通り、経営者の方と対等な立場で仕事をしたいと考えていたので断っていました。また、それまでの仕事は、オフィス物件の契約までが主で、その後の内装工事や実際の移転時のサポートはあまりできていなかったので、契約以降も一括でサポートするような会社を立ちあげたいと考えるようになっていったんです。
そんな時、お客様からの空室改善プロジェクトの依頼を受けました。それまでの会社では、物件を探されているお客様から依頼をもらい、既に空き部屋として募集されている物件情報を紹介して、仲介することがメインでした。
しかし、この仕事は物件オーナー側の立場で、空いている物件に入居したい人を探す仕事でした。ある程度のターゲットを想定して、その方たちが移転したいと思える条件に設定にして、ターゲットにアプローチしていくことで借り主を見つける仕事で、今までとは違った視点で、今までの経験を違う形で生かすことに気づけたんです。
その仕事のスタイルでもお金を稼げるというのが成功体験となり、前職の同僚と一緒に、オフィスの仲介を行う会社として株式会社ワンプラスワンを立ち上げることにしました。
色々な方に挨拶回りをした際に、起業して会社を経営する厳しさは教えてもらいましたが、もう会社を作ってお客様もいる状態だったので、「やるしかない」という状況でしたね。
恩返しをしていきたい
今では創業して5年目になりました。私たちは、移転に際してオフィス物件の契約だけでなく、その後実際に移転するまで、様々な関係業者さんと連携して、お客様をサポートすることにも力を入れています。
また、お客様企業の成長が、結果的にオフィスの移転につながる業種なので、お会いしたお客様のビジネスに寄与できそうな人がいれば、なるべく紹介するようにしています。先日もあるお客様に銀行を紹介したところ、融資が決まったとの嬉しい報告ももらえました。
おかげさまで、創業してから今まで基本的にリピーターの方とご紹介によってここまで経営を続けることができました。ただ、もちろんいつも順調なわけではありません。売り上げが厳しい時もあります。
しかし、そんな時ほどお客様のためになりそうなプロジェクトに参加させてもらうようにしています。ある意味、その会社の一員として一緒にチャレンジをしている感覚です。今までの実績は、アパレルブランド立ち上げ、新規事業立ち上げ、今もシェアオフィスの立ち上げ、運営協力をしています。
そういう新しい事業の一面だけを切り取ると、採算的には黒字にならないこともあります。しかし、そこで培った人とのつながりが、結果的に自分にも何かをもたらしてくれるので、見返りを求めるだけでなく、誰かのために何かをすることは重要なんじゃないかと考えています。
特に、30代になってからは社会貢献という言葉も自分の中で生まれてきて、創業期の会社の手助けをすることが、私にできる貢献の形なのではと思います。そして、私自身が今まで色々な人に助けてもらったように、オフィスだけでなく、人と人を仲介することで、恩を返していきたいですね。
また、昔から自由にさせてくれた親への恩返しや、沖縄のために何かをしたい気持ちもあるので、将来的には沖縄のために何かできないかと考えています。その一つの方法として、今の事業を活かして沖縄など地方に情報基地をつくりたいと考えています。都市とつながりをつくり、地方の情報格差をなくして、地方を盛り上げていけたらなと。
いずれにせよ、自分が今までもらってきた分だけ返していけるように、これからも歩んでいきます。
株式会社しんかで、企業の次のステージづくりをしたいと想う自分の原体験とは何か?
アートシンキングというものと出会い、原点が何であるか理解をして、それをベースに物事を作り上げていくことが結果的に自分自身がやりたいことを明確化することで、やること、やらないことの断捨離、効率化につながっていくものだという学びを得た。そこで自分の原点は何かを可視化して備忘録的に書いてみようと思います。
アートシンキングとは
https://sinca.co.jp/art-thinking/
私は沖縄で生まれてから18歳まで育ちました。
おばあちゃんの家があったことで、東京に1年に1か月程度過ごす機会があった。
だから私自身は沖縄人のようで東京人みたいなところがある。
沖縄には住んでいたが今ある環境があまりにも自分にとっては不変すぎてあまり興味がなかった。
そんなに詳しく沖縄の文化もわからないし、東京上京後に知ること、学ぶことの方が多かった。
そんな自分の環境と比較する機会を2回、両親から頂いている。
それはアメリカへの留学体験。
中学生2年生にアメリカにホームステイで1ヶ月、高校3年生でアメリカ留学1年間。
沖縄はアメリカの基地が点在しており、アメリカ人の交流する機会もありました。
また基地の中に英語を学びに行く機会も稀ではなかった。
だからこそアメリカ留学には抵抗感がなく、そんなにギャップがないものだと思っていた。
実際に留学してみて、その人たちの環境にどっぷり入ってわかったのは全く違うものだった。
1ヵ月のホームステイは休みだったというものもあり、楽しかったで終わったんで、
その延長線上で1年留学を決めたのですが…。
1年間の留学は時間が進めば進むほど新鮮さがなくなり、
日本で当たり前にできていたこと、できることに対するギャップに苦しみました。
特に冬がつらかった。
留学していたMAINE州というカナダの国境にある州で、
緯度が高くて、日照時間が短くて、14時位には夕方モード。
暗い時間が長くて、沖縄で生まれ育った私にとっては太陽がなく、本当に滅入りました。
そんな留学時期にどこから来たかわからない私を
その学校の人は私が苦しんでいる時に多くの方にフォローアップ頂きました。
日本のようにイジメもありますが、多様な人種がいる中で一人の人間として受け入れて、
困っている時に手を差し伸べてくれました。
受け入れてくれた理由は
ちゃんと前を向いて、取り組んでいたことに支援をしたいと相手が感じたととらえています。
引きこもっていたらそんなことはなかったかもしれませんが、
積極的にクラスにも、部活動にも、家族付き合いにも参加していました。
参加していく中で私のことを知り、触れ合い、信頼をしてくれたのかもしれません。
日本というだけでなく、沖縄の基地に友人がいるなど共通点を持つネタが多かったのは
本当にラッキーだったなと思います。
認知して⇒興味を持ち⇒仲良くなる⇒誰か新しい人を紹介されるというサイクルに入り、
多くの方と繋がっていくことになります。
唯一の日本人だったのもあり、本当に目立ちました(笑)
スーパーでレジで並んでいて、前に並んでいた小さい子供が私を見てビックリして泣いたのにはビックリしました。
そこから色々な人と繋がり、関係性が浅い人も、深い人もいますが、
街をドライブするとあちらこちらから私の名前をからかい半分で呼んでくれるようになりました。
これは相手がどういう意向かは別として日本人として、人として認められた証拠です。
アメリカだからと言って、全員がそういう風に扱われるわけではありません。
どんな時もワクワクから生きているからなぜか笑みが生まれ、
皆を笑みで巻き込んでいくものだと再認識しました。
また誰と繋がっているという認知の次のステージから付き合いを始められると
信頼のステージの手前から始めることができます。
その代わりに、信用のステージに入って信頼されないともう次のステージには一生上がれません。
そんなこともしっかり学び始めたのもこの時期だったのかもしれません。
*共通点ネタ探し、紹介してもらうという特技はこの時期から種まきが始まっているのでしょう。
少し議題と脱線しているので話を戻していきます。
私の原体験で、ホストファミリーとの関係があります。
ホストファミリーは無償で受け入れ留学生を受け入れるルールになっています。
だから日本人は他の国の人に比べると、年間通してホストが決まらないことがあるそうです。
理由は言語力、コミュニケーション力の問題だそうです。
言葉がわからないよりもコミュニケーションをして意思の疎通が取れないことにより
受け入れたいという人は少ないそうです。
ホスト側は受け入れる目的としてその人たちの母国についての学びというニーズもある中で
コミュニケーションができないことによりそのような傾向になる事実を仮ホストファミリーから伝えられたのを鮮明に覚えていると同時に、これから始まる前途多難な1年の始まりに不安を感じた。
転々とするのが嫌だったので、選択肢は1つしかなかった。
中学生の夏にお世話になった知り合いの家族にホストをお願いして快諾してもらった。
そこで色々大人の事情もあり、そこの家を出ていくことになる。
実際は私は問題だと思っていなかったけど、周囲はそう思ったそうです。
水面下で皆さんが動いてくれた。
その時は学校始まって4週間程度で、私を評価してくれたのはサッカーをしている姿勢。
別にうまくないが、言葉が通じない中でサッカーを行うことは負けなかったのだけが救いだった。
ひたすらボールを追いかけていた。取れなくても、ボールが出そうでもあきらめずに最後まで走る。
それしかできなかった。でもその姿勢に周りが覚えてくれてた。街中を歩くと知らない人が声をかけてくれて、『先週はいい動きしていた!』と褒めてくれた。そんなチームの仲間が英語はロクにしゃべれないけど、プレイの姿勢を評価してくれて、仲良くなったのは自然の流れだったようです。
そこで家を出ていくべきだ論が出て、私はホストチェンジすることになった。
でもそんなに仲の良いメンバーではなく、あまりしゃべったことのない仲間だった。
家族とも同様に初対面に近いが、私を受け入れた理由は『困った人は助けたい』の一言のみ。
そんなご縁で9ヵ月お世話になり、ランチ代として毎日5ドルもらっていました。
英語ができるようにゆっくり話してくれたり、アウトドアを学んだりと貴重な時間でした。
しっかり家族として受け入れて頂き感謝しかありません。
そんな原体験の中で、『困っている人を助けたい』、『チャレンジする姿勢をお手伝いしたい』と思うようになりました。
大学を経て、社会人になってからも、顧客との対話の中で大きなチャレンジしている企業への成長を支援したいと思い、支援していく中で大きく成長していく企業を見てきました。そのように成長していく企業を多く、世の中に輩出していきたいと思いました。
私たちがメイン事業として行っているオフィス移転は大きなお金が動く中で、物件を紹介した、してないなどだけで企業として選ばれるというのは疑問を思い、オフィス移転という大きなチャレンジをしていく中で不動産会社としてではなく、人としてその会社を支援したいと思うと色々なことができるものです。人材を探していれば人材を紹介したり、取引先を探していたら取引先を紹介したり、PCがなければ使っていないものを譲ったり、とお手伝いしてきました。そのような企業こそ、その後の成長スピードはビックリします。そのようなことをしてきたら、不動産仲介に留まらない視点でその人たちの成長支援ができると思ったんです。
タイミング的にもこのまま会社でやっていけないと思ったので、起業して、まず起業時に困ったので起業向けのシェアオフィスを開設して、そこに入居したら会社設立~税務相談、免許取得、資金調達をサポ―トとして、売上不安だから取引先をバンバン紹介して気がついたら1年ぐらいで皆さん売上が安定して出ていくんです。
売上上げたいよりも『困っている人を助けたい』、『チャレンジする姿勢をお手伝いしたい』を大切にしたいと思うと、ビジネスの取り組み方が全く違うです。
大切にしたいことが違うからそういう理由なんだと2回目の起業である株式会社しんかを設立する時に気づいたんです。
おそーーーーーーーーーー!おそーーーーーーーーーー!ほんとうにおそーーーーーーーーーーーい!
株式会社しんかの社名は
沖縄の方言のシンカヌチャ(仲間。ビジネスの仲間。別表示:臣下)からインスパイヤ―されています。
*シンカと呼ばれることが多いです
名付けた理由はどんな時も私たちは仲間に助けられて生かされています。
本当に大変な時でも誰かの1つの紹介が私たちの状況を一変して、また私たちの一人の紹介がかけがいのない出会いに繋がったりします。そんな仲間を大切にしたいという理由が一番最初の理由です。
またビジネスの仲間の成長も願っていますので、しんか⇒進化、しんか⇒真価、しんか⇒新価という願いを重ねています。
そんな想いに共感して、日本の社会でチャレンジする姿勢を応援したい、困っている人を助けることができる社会を作っていきたい人にジョインしてほしいです。
あなたの原体験が想いを作り、その想いが行動に変わっていきます。
あなたに大切にしてほしいのは想いと行動(伝える)のサイクルだと思っています。
結果はいつか形になりますが、前向きに苦しいことも楽しみながら形にしていきましょう。
くだもん こと、久田友彦さんのご紹介でした
くだもん こと、久田友彦 不動産業の中でもオフィスに特化した事業を経営する株式会社しんか代表取締役を務める。
参照サイト
https://an-life.jp/index.php?_url=/article/433/
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